作家が語る探偵小説観-た行〜わ行-


-た-


No.14掲載

高木彬光のことば

探偵小説の興味は、善と悪との対立である。光と影との拮抗である。
探偵小説の中にあつかわれる事件は、出来るかぎり、悪質なものでなければならない。
だから探偵小説のテーマが、ほとんど九割ぐらいまで、殺人という大罪をとりあつかっているのも当然のことである。ただ、その目的と手段を混同してはいけない。探偵小説の目標は、殺人そのものを描き出すことではなく、その殺人のかげにひそんでいる明暗の像を出来るだけ、鮮やかに浮かび上がらせようとすることなのだ。ここが、犯罪小説と探偵小説との分岐点であり、その善悪の対立を、心理的に描き出そうとするのが、変格探偵小説または本格心理小説の立場であり、その拮抗を理智的に描き出そうとするのが本格探偵小説なのである。
だから、本格探偵小説における事件の犯人は、まず極悪非道の犯罪者でなければならない。奇妙な温情があったり、生ぬるい良心の働きがあったりしてはならない。その道徳律は皆無に近くその智能は、悪魔的に徹底的にすぐれていなくてはならないのだ。
だから、探偵小説の犯人は、みな白痴か狂人のような良心と、大学教授のような頭脳を持ち合わせていなければならない。罪をおかす時にはあくまで大胆不敵、その刑罰を逃れようとする時には、あくまで細心緻密でなければならない。

「探偵小説とは何か」より


No.23掲載

多岐川恭のことば

ミステリの拡散現象で、ワクはずいぶん広くなっている。だから昔ほどの不自由さはないようなものの、ワクが消滅したわけではないので、ミステリと言う以上は、ミステリアスなものの提示と解明という条件をみたさなければならない。手掛りによる推理、探偵と読者の知恵くらべなどは、必ずしも必要ではない。ミステリと銘打たれた作品の中にも、なるほど犯罪を取扱ってはいるが、何らミステリアスなものを感じさせないようなものがある。ちょうどサビ抜きのすしのようである。一方、ミステリの分野には本来属さないのに、ミステリと呼んでさしつかえないものもある。ミステリのワクに入るか入らないかは、作品によるので、作家によるのではあるまい。
こうした多様なミステリの中の、核のような存在が、いわゆる本格物で、私は本格と言うより、正統派とでも言い換えたほうがいいように思うが、これはやはり、欠くべからざるもので、これが衰弱したり、なくなったりすれば、ミステリという小説分野は、たちまち解体してしまうのに違いない。得手、不得手は別の話である。歴史は古く、形式的にも完備していて、他の小説分野から嶄然と独立性を誇っている。まず、ミステリの旗印のようなものだと言っていい。素朴な読者は、ミステリとは取りも直さず、本格物だと考えている。

「ミステリ愛憎」より


No.20掲載

陳舜臣のことば

推理小説は、結末がきまっているという、宿命的な構造を持っている。したがって、作者はすくなくとも八分通りプロットを組み立ててから、はじめて書き出すのである。ふつうの小説では、登場人物のからみ合いで、そこからプロットが分泌されるようになっている。
だから、推理小説は機械の体質で、ふつうの小説は生物の体質である、と言った人がいるほどだ。
推理小説をあきたりないと思う理由を、このつめたい機械の、鋼鉄かプラスチックの膚ざわりにあると、説明する人もいる。
残念ながら、それはもっともだ、と思わざるをえないところもある。
とすれば、推理小説の志向すべき道は、この機械的体質を、生物的体質に変えることにあるのだろうか?
私はそれが本道であると思う。
機械の時代は、どうやらもう終わったようである。
人間性の回復が唱えられる時代となったのである。
科学の進歩の申し子である推理小説は、やはり時代の子なのだ。科学万能が否定され、人間性が尊重されるようになると、その方向に傾く。

「変わりつつある推理小説」より


No.21掲載

都筑道夫のことば

日本の推理小説は人間が書けていない、小説ではない、という攻撃がおこなわれたとき、名探偵は没落しました。たしかにアメリカ型アマチャー探偵の悪影響があったことは事実です。探偵よりも、犯人を重視しがちな欠点も、ありました。つまりはトリック偏重と必然性の軽視です。その原因から、犯罪解決機械みたいな名探偵が生まれ、結果として、人間が書けていない、という非難になったのだと私は考えます。
それにかわって生まれたのが、平凡人による犯罪を、平凡人が解決する推理小説です。けれども、犯罪そのものまで、謎そのものまで平凡では、読者の興味をひくことは出来ません。平凡人が異常な行為に踏みきった姿を、書かなければならない。すなわち背景のない異常ではなく、異常のむこうに普遍を見すえることになったわけで、これは進歩といっていいでしょう。
けれども、解決のほうは、芝居っけがなくなっただけで、変わりばえはしないようです。その事態が進行するうちに、犯罪そのものまでが平凡化し、マンネリズムに落入ってきて、昔ふうの本格推理小説をもとめる声が出てきた。まあ、大ざっぱに戦後のわが推理小説の変遷を、こんなふうに見ていいと思います。

「名探偵よ復活せよ」より


No.15掲載

土屋隆夫のことば

推理小説は、一定の形式を必要とする文学である。それが成立するためには、人工的な謎と、謎を解明する人工的な論理と、それに伴う意外性を必要とする。わたしが、ことさらに「人工的」ということばを付け加えたのは、推理小説が徹頭徹尾「作り話」であることを強調したいからにほかならない。もちろん、すべての小説が「作り話」であることにはかわりはないが、推理小説は、特にその「作話性」を重視する。犯罪の記録や、ノンフィクションと呼ばれるもの、或いはある事件のルポルタージュのようなものは、いかに「文学的」に表現されていても、推理小説と呼ぶべきではない。そこには、作者が作り出した、人工的な謎や、人工的な論理がないからだ。「ああして、こうして、こうなった」というような記述は、新聞の記事であって、推理小説にはなり得ない。(中略)
推理小説は文学であるか、という議論も、しばしば行われて来たものである。これは、推理作家のコンプレックスから生まれた、文学というものを、天井に輝くまばゆい星のように見て、推理小説は、下界の俗事を記す俗悪卑劣な作文であると考えれば、一歩でも文学に近づきたい心境になる。なんとか文学者の仲間入りをしたいという気持が、推理小説文学論に発展した。有害ではないが、たいして有益な議論でもない。

「私説・推理小説とはなにか」より


No.19掲載

角田喜久雄のことば

推理小説の開祖ということになっているエドガー・アラン・ポオの作品には密室問題をあつかった本格ものの原型ともいうべき「モルグ街の殺人」を始め、サスペンス小説、犯罪小説、恐怖小説など今日広義な意味で推理小説の中に入れられている種々な原型が存在しているが、しかしポオは「何々小説」などということを意識してそれらを書いたはずはなかろう。作品は唯書くしかない。
一度推理小説作家のレッテルを貼られると何を書いても、雑誌にのる時推理小説という肩書をつけられるとか、推理小説が流行するとおやおやと思うほどの作品にも同じ肩書をつけられるとかいう問題も、出版社の都合でやることで作家の責任ではないし、作品の良否や、文学であるかないかの問題なども読者のきめることである。作家は唯ひたすらに書くしかないというのが私の考え方なのだ。
乱歩さんの言ったように本格推理小説は文学たりえないが、高度な作品になれば下手な文学作品より高い価値を生むだろうという説にも賛成だし、推理小説も文学でなければならぬし、われこそ一人の芭蕉になってそういう作品を書いて見せると豪語した木々さんの態度も結構だと思う。だから、私は論争のどっちにも荷担しなかったのだと。

「推理小説文学論の周辺」より


No.37掲載

戸板康二のことば

探偵小説のたのしみは、むろん謎ときにあり、いいかえれば、作者のかけた罠にかかって行く快感ではないかと思う。エラリー・クイーンは、わざわざ巻末近くで、読者に挑戦状を発するくせがあるが、僕はあれを読んで、かって口惜しいと思ったことはない。むろん多少はすれているから、少し前から犯人がわかっている場合もあるが、大抵は、最後までわからない。犯人らしく見えるのが犯人の筈はないという消極的な見当のつけ方しか出来ないのである。でもそれで一向さしつかえない。だまされる喜び、そのあとに解決篇が待っているのだ。長篇を読みながら、もうあと二三十頁で、結論が出るという時の、たゆたう気持は、探偵小説において、最もいちじるしいのではないだろうか。東海道線を往復する時、僕は、鞄に三四冊入れてゆくが、春の日の傾きかけた頃など、丁度筋の運びがすっかり終わって、探偵が関係者を一箇所に集め、事件の説明にとりかかろうとする。その前、ひと息入れて、窓の外の暮れなずむ景色をしばらく眺めている気分は、ちょっと得がたいのである。謎を探偵と一しょにといていこうとする精神も、尊重したいし、そういう読み方のほうが本格なのかも知れないが、僕は僕なりに、謎を謎のまま、最後まで主役にあずけておく行き方をしている。

「探偵小説のたのしみ」より


-な-


No.26掲載

中井英夫のことば

ひところ私は、推理小説という名称をたいへんに憎んだ。それまでの探偵小説の「偵」の字が当用漢字にないという、それだけの愚かな理由によって、やすやすと昔の名を棄てる風潮ががまんならなかった。東京の由緒ある町名を片っ端から変更して恬然としている住民たちが決して東京っ子ではないと同じに、お上がそうと決めれば翌日から寸だの尺だのという日常に生きている呼び名を平気で棄ててしまう神経は、よそ者だけの持つ恥知らずな感触に思われた。市民の気概、土地っ子の誇りはどこにあるのだろう。推理小説という、いかにも明快でスマートで、その代わり肝心な翳の部分をどこかにすっかり落としてきたような名を喜んでいられるのは、美しい小東京を大事に育てあげる代りに、やたら区画を広げて大東京だ首都圏だと悦に入っている手合と同じにしか思われなかった。なんで八丈島までを東京と呼ばなければならないのだろう。
いまの私にとってその問題はもうどうでもよく、好きなように呼んでくれという気持しか持てないが、土地っ子の憤懣だけはまだ時折くすぶらないでもない。少なくとも、読むという点に関する限り、私は探偵小説の土地っ子だったからである。

「黒い水脈」より


No.45掲載

中島河太郎のことば

戦後生まれた「推理小説」が、「探偵小説」の座に代わるまで、多少の紆余曲折がなかったわけではない。「推理小説」の誕生は、新らしいものを企図したのであったが、結局大勢に押し流されて「探偵小説」の同義語として、不本意な役割を果たさざるを得なかった。(中略)
推理小説はまず名称が生まれて、その中に盛るべき内容を吟味しようとするものであった。提唱者(木々高太郎)自身がいくつかの疑義を提出しているばかりか、その成立を希求するといった程度のものであった。(中略)
「推理小説」は探偵小説および類縁の諸小説を包合するという所説(江戸川乱歩高木彬光香住春吾)が崩れて、探偵小説と文学との一体化を目ざす、いわゆる文学派の意図する作品をさすものとなった。しかし狭隘な探偵文壇の垣の内の争いは、一般には無線であった。
「探偵小説」という名称が、やもすれば戦前のエロ・グロを売物にした煽情小説を連想させるのに反して、戦後理知の文学として一般に新たな認識を要求しようとするとき、「推理小説」と看板を塗り変えたほうが、新鮮な感じを与えるように思われた。
戦前の探偵小説の旧観念からの脱皮を願っていた関係者にとって、意識無意識に拘わらず、推理小説の名称使用に傾斜した。世間一般が代用語として用いているのに、いわば便乗した形になって、文壇内部の「推理小説」論争は終止符をうつに至ったのである。

「推理小説と探偵小説」より


No.42掲載

夏樹静子のことば

推理小説は本来、長篇にせよ短篇にせよ、何か新しい着想がなければ、書くべきではないと思う。トリックでも動機でも、ほかの何についてでも、どこかに新鮮な意外さを感じさせるアイディアがなければ、推理小説の推理小説たる所以がないとさえ考えている。ほかの方の作品を読む時にも、私はいつもその点を念頭に置いて読んでいる。常に新しいものが要求されてこそ、すでに使われたアイディアは決して二度と使うことができないといわれる推理小説特有のきびしさの意味も生きてくるのではないだろうか。一度使われたアイディアを踏襲してはいない代わり、何の新しさもないというのでは、その推理小説の存在価値はない。−これが私の持論であるけれども、自分自身理想通りにはいかないことを、いつも恥しく思っている。
新しいアイディアの上に、小説としての感動が加味されれば、成功であろう。「人間が描けているかどうか」といった表現がよく小説の批評に使われるが、それが推理小説と銘打たれた作品である限りは、推理的要素の新味と堅牢さが大前提とならなければならない。また「自分はトリックにはあまり興味はないが、小説として面白かった」などという意見もよく耳にはいるが、私自身はそんなことをいわれると、大変面白くない。(中略)非常にすぐれたトリックは、すでにそれだけで一種の感動を誘うものである。書く側でも、それくらいトリックなるものに惚れこんでいなければ、本格推理小説を書き続けることはできないのではないだろうか。

「私の推理小説作法」より


No.35掲載

南條範夫のことば

私はかねてから歴史に取材し、又は歴史を背景にした推理小説も当然、推理小説の大きな分野を占めるべきだと思っているのだが、現状ではそうしたものは一括して、歴史もの、時代ものとして扱われ、推理小説と云えば、現代ものに限られている状態であり、それを甚だ不満に思っている。
私自身、かなり多くの歴史推理乃至時代推理小説を書いたが、殆どの場合、推理小説としては待遇されず、単なる歴史ものとして見られてきた。
現代に謎があり、秘密があり、サスペンスがあり、異常心理があり、スパイがあり、恐怖や逃亡があるように、歴史の中に凡そこれらの要素があるとすれば、歴史小説でありながら、本格的乃至変格的推理小説であるものも、当然存在すべきであろう。(中略)
史実と云うものは決して明確ではない、どんなに調べても分からない事が極めて多いのである。(中略)
誰が広沢参議を暗殺したか、誰が坂本龍馬を斬ったか、その事実は誰にも分からない、その答はただ推理によってのみ出てくる。
明智光秀は何故謀反したか、片桐且元は忠臣か裏切者か、と云うようなことも、どんなに外に現われた事実を綿密に調べても分かりはしない。結局その心理を推理する以外に答えはでないだろう。

「史実と推理」より


No.12掲載

野上徹夫のことば

探偵小説は、単にクロス・ワード・パズルの小説化たりや否やということを考えてみなければならない。これについては既に江戸川氏も述べているように、探偵小説のうちの「探偵」をのみ重要視して、「小説」であることを全然忘れた形である。なるほど、クロス・ワード・パズルだけを重視していれば、謎が、決して、芸術的存在となり得ない以上、謎以外に、如何なる文学的要素が入ろうと、それは、本質的に何ものをも探偵小説につけ加えず、敢て探偵小説が、芸術たり得なくともよいと言いたくなるのも、うなづけはする。しかし、それならば、一体、何のために、探偵小説は、小説として存在しているのか。小説であることが忘れられては、探偵という分子を忘れられたと同様、探偵小説は浮かび上がれまい。クロス・ワード・パズルは、元来、手がかりが、文字というだけというものにしかないのである。こういう形のみで、生命を持たぬものをものをとらえて、どんな「装飾文字で印刷した」ところで益はない。小説は、それに反して、クロス・ワード・パズルのように文字だけの遊戯ではないのだ。そして、その中の「秘密」をとく鍵は主として、人間にかくされているのだ。形だけの生命のないものではない。人間として、生きている以上は、性格も持っているにちがいない。心理の動きもなくてはならない。その集合から集団的アトモスフィアも生まれて来るであろうし、自然との配合から、情緒的アトモスフィアも、生まれて来るであろう。

「探偵小説の芸術化」より


-は-


No.9掲載

長谷川天渓のことば

探偵小説が無限に生きてゆくには、文学的に作られるに限る。公式の説明でなく、具体的事物の解剖に向かうことが、文学的であり、また限りない変化を表現し得る道である。実際の人生、現実の社会が、無限に変転して行くものならば、探偵小説の材料の尽きる時はあるまい。
殊に作家の眺める点が、心理方面にあるならば、新しいものが有り過ぎて困る位であろうと思う。生活の表面に現れて居る事実ばかりを見て居るならば、材料の尽きる時もあろう。しかし表面の事実というものは、生活の一部分で、しかも極めて小さなものである。それ以外の心理現象と云うものは、表面に出て居るものに比すれば、非常に深く、また複雑である。精神分析学者の言う無意識の働きそれが意識の表面に様々な変化を起こすもので、奇異な現象を起こすもので、奇異な現象は、もちろんのこと、平凡尋常のものでも、この方面から見れば、深い意義を含んで居るのである。
奇異を奇異とし、平凡を平凡とし、犯罪を犯罪とするごとく、紋切型の説明をして居ては転換の道はない。奇異は奇異でなく、平凡は平凡でなく、犯罪は犯罪でないと言う心理的探偵を進めるところに、この小説の新生命が開けるのである。

「探偵小説の将来」より


No.10掲載

馬場孤蝶のことば

探偵小説の筋は余り専門的に混み入らない方が宜しかろう。つまり犯罪のみちゆきが、素人には一寸解り難いように混み入ったものだと、読者の興味が途中で疲れてしまうおそれがある。(中略)
探偵小説に描かれた犯罪のミステリアスに思われる点は、要するに作者のトリックになるわけなんだが、そう云うトリックが専門的な事柄の中で設けられている場合に、稍もすれば読者に不自然な感じを起させる。即ちそこが面白くないように思われる。トリックは自然にゆかねばならない。つまりトリックの臭味が殆ど見えないまでに見えるようにゆかねばならない。
読者の興味をどこまでも繋いでいくと云う意味から云えば、犯人なり、犯罪の真相、若しくは動機なりが、なるべく作の終わりの方になるまで解らないようにすべきではあるのだが、又作者が、それを余り隠し過ぎるようにするのは巧みな方法ではない。犯人が自白しないとか、或はそれに関係ある人などが、或る事項を語らないと云うようなことで、犯罪の真相の遅なわると云うのならば、必ずしも不自然な感じが起ると云うわけでは無かろうと思うが、探偵が説明しさえすれば、直ぐ解る事を只心の中に収めて置いて、それがために作の結末が永引いてゆくと云う様なのは宜しい作ではないと思う。

「探偵小説のトリックに就いて」より


No.38掲載
本間田麻誉のことば

“罪と罰”が探偵小説であろうとなかろうと、それ自体が探偵小説にプラスするものでないばかりか、そんなことを問題らしく取上げる、その心構えが、探偵小説を後退させるのでなければ幸せである。その作品からどんなに犯罪を異常心理を憎悪をスリルを・・・等々、探偵小説的要素をぬき出してみたところで、どの一トコマにもそれのない人間生活があるだろうか。文学が人間を人間生活を描くものである限り、そうなればどんな作品だって、大抵探偵小説になってしまう。
要は、探偵小説を規定するものは角度−眼の問題にすぎぬのではないか。だからこれを外さぬ限りどんな内容を扱おうと、それは探偵小説だとこれも序でに云い切っておこう。それ故僕には本格も変格もない。あるものは、ただ文学としての探偵小説のみ!従って、心狭い一部探小の鬼たちが、本格は変格よりも難しい等いっているのも、気持は解るがヒイキのヒキ倒し、むしろ探偵小説を昔へ、昔の幼稚へ退行させるものとして僕はとらない。論理的、推理的といったって、とに角大したものじゃないのだ。これは自分が書いてみて一番よく解る。
トリックは莫迦でない限り誰でも思いつける。然し人間を、人間の生活を、本当には容易に書けるものではなかろう。人間をはなれたところで独創的トリックを追うのが、道楽とあれば致し方もないことだけれど、作家としての冥加には、ささやかなトリックであっても、それを人間ギリギリのところまで追いつめて、そこの一ト筋探偵小説の眼をギラリ光らしてみたいと僕は思う。

「今年の抱負」より


-ま-


No.13掲載

松本清張のことば

推理小説が文学になりうるかどうかという論争は、しばしば聞くが、文学作品になりうるものは、推理小説であろうが、恋愛小説であろうが、歴史小説であろうが、一向に変わりはない。わざわざ推理小説が、と断らなくても、文学的な作品になることは同じである。ただし、この仮想を推理小説としての規律内で書かれた小説が文学作品になるうるかという点になれば、限定範囲は狭くなり、明確になる。
周知のように、推理小説には、それ自体のルールを決めたおぼろげな規則がある。たとえば、ヴァン・ダインなどあたりがとなえている二十則などというのが、それである。
推理小説の枠を規定するのに、この規則は正しい。よく読んでみると、なるほど、推理小説はこうあらねばならぬように考えられるし、この規則からはずれたものは推理小説ではないように思われる。しかし、これは書くほうの側からではなく、読者の側で失望を受け取らないために設けた用心深い枠なのである。
本格推理小説という肩書きが付いているので読んでみると、とんでもないマヤカシもので、失望をおぼえることがある。そういうことのないように、二十則は憲法のように規定されたと思う。
こういう推理小説は、まことに珍重されるべきものである。あたかも伝統的な宗教のように、代々、法燈を継いで然るべきものであろう。本格の殿堂に灯を絶やしてはならぬ。

「推理小説の魅力」より


No.43掲載

三好徹のことば

スパイ小説とは何か、を定義するのは、小説とは何か、を定義するのと同じ程度に難しい。客観的なメジャーはなにもないのである。ただ、はっきりしていることは、欧米においては推理小説とは別のジャンルのものとして扱われているらしいことである。たとえば、サザランド・スコットは「現代推理小説の歩み」のなかで、スリラーと推理小説は同じものではない、せいぜい血縁関係にあるといえる程度−と断言している。(中略)
私見によればモームの「アシェンデン」はスパイ小説といえるであろう。しかし、ヘイクラフトの「娯楽としての殺人」のなかでは、アンブラーバカンの作品は出てきても、この作品については一行もふれられていない。スコットの本でも、モームは出てくることは出てくるが、それは作品についてではなく、「推理小説の衰退」というエッセイを引用することで出てくるのである。
(中略)しかし、スパイ小説についてなにか論じようとするものは、モームのこの作品を抜きにして議論をすすめることはできない、と私は考える。(中略)
では、「アシェンデン」という作品の特徴はなにか、というと、それはスパイとスパイによってなんらかの作為を蒙るもの(かりに被スパイとしておく。非ではない)との物語ということである。
私は、ごくあたりまえのことをいっているようにうけとられるかもしれないが、じつはここがポイントである。

「スパイ小説について」より


No.33掲載

森村誠一のことば

多様性に富む推理小説の中で、本格推理だけをかたくなに書き続けるという姿勢に、私は情熱を感じる。絶対出入不可能な密室の中で人を殺したり、途方もないアリバイを工作する犯罪者が現実にあろうか。
現実にあり得ないことをトリックをこらして、いかにもあり得るように書いても、それは小説としての不自然さをカバーできない。その無理を承知で、あえて困難な本格推理に挑み続ける態度に、私は情熱を感じるのだ。
リアリティや、人物表現に真っ向から取り組むことは、小説作法上の正攻法である。非常に興味ある人物あるいは事件を凝視し続ければ、小説書きである限り、必ずその思考フィルターに濾過された、作者独自の作品世界と人物像が再生される。それが文学の再生作業ではあるまいか。
だがここにトリックを創造して、現実に存在しないような犯罪を、創り出し、読者を架空の非現実的ドラマの中に誘い込むのは、作者に遊びの心とサービス精神があるからである。
人間が描かれていない、小説としての厚みに乏しい、プロットが不自然である、などの批評にめげず、真っ正面からトリックを弄して本格推理小説を構築する作者は、本格推理の味を極めようとしている求道者の一種である。
本格という呼び名からして、いかにもこれが、推理小説の中核のようにとらえられていることには抵抗を覚えるが、本格推理の構築は、すべての推理小説の中で最もむずかしいと思う。

「実作者のメッセージ」より


-や-


No.8掲載

夢野久作のことば

私は本格探偵小説が書けない。書いてもみたが皆イケナイ。本格物を書く事の味気なさが身に泌みる。
その癖読むのは本格物、もしくは本格味の深いものが好きである。
だから読者として本格物に対する註文は相当もっている。むろん無理な註文も多いに違いないがそれでも自分の註文に嵌まった本格探偵小説を憧憬れ望んで居る事は決して人後に落ちない積もりである。

読者を弄ぶ探偵小説は嫌いである。探偵小説を書くなら正々堂々と玄関から、お座敷、台所、雪隠まで見せてまわらなくてはならない。しかも退屈させない様に、非常な興味を持たして案内して行かなければならない。
此の点が本格物の一番骨の折れる処ではあるまいか。

作者が一度読んだものを有意識にも、無意識にも真似たものは、ドンナに口ざわりがよくても味が落ちるから直ぐにわかる。
必ず自分の井戸から汲んだ水ではければイケナイ様である。他所の井戸水で作った酒は決して酔わない。酔えば悪酔いをする。

「探偵小説漫想」より


No.17掲載

横溝正史のことば

即ち探偵小説にもいろいろの要素はあるだろうが、その中で最も顕著なのはこの稚気と煙幕である。読者は常に群がり寄る煙幕をまっしぐらに掻きわけながら、与えられた問題の焦点をつかまえようと努力する稚気を持たねばならない。
そしてまんまとそれに成功した人は、自己の優秀な推理力に対して、会心の微笑を禁じ得ないであろうし、又その反対に、作者の巧妙な煙幕に眩惑されて、その解決に到達し得なかった場合といえども、寛大な賞賛を作者に呈上するだけの稚気を持合わせなければならない。若し諸君が巧妙に欺瞞に対して、憤懣をおさえかねるような性格の持ち主なら、遺憾ながら、諸君はすでに探偵小説の読者ではあり得ないということになるのである。
そこれ問題は作者の側に移ってくる。読者がすでにかくの如き寛大である以上、作者もまたそれを裏切らない程度に、正々堂々たる「鍵」を呈出しなければならぬ。煙幕が巧妙であればある程結構だが、その中に解決し得る「鍵」を全然暗示しておかぬのは、卑劣な欺瞞である。−これがヴァン・ダイン氏の提唱したフェアーであり、そして近頃の探偵小説は殆どこの精神にのっとって書かれているようである。(中略)
そういう意味に於て、探偵小説は大人の文学である。青年の呑気と情熱とは自ら別のものを感ずる。しかも、探偵小説は常に稚気を伴うものであるから、作者は多分に稚気に対する情熱を持った大人でなければならない。

「私の探偵小説論」より


-わ-


No.36掲載

渡辺啓助のことば

僕自身、探偵小説とは何ぞやと聞かれると、即答に困るのです。
一応尤もらしい常識的な定義を述べることができるにしても、それだって、よく考えてみると、だいぶ曖昧模糊たるところがあるのです。
まして、僕自身の書くものなど、探偵小説に属しているのかいないのか、もわかりかねる次第です。
探偵小説は、論理的な明快さをもっていなければならない、と云っても、論理的に明快でさえあれば、それで探偵小説になり得るか、となると必ずしも、そうとばかり云えないような気がしてくるのです。この不条理にみちている世の中において「論理的明快さ」なんて、しょせん「遊戯」でしかないのではないでしょうか。
(何を君は云ってるンダ−探偵小説は「遊戯」さ、遊戯以上のものを求めるなンて僭越だゾ)
そう云われると、なるほど遊戯だと云う気がしてきて、大いに気が楽になるンですが・・・もっとも、あんまり定義などに拘わらんほうがいいようですね。
僕など、なんとなく書いているうちに、なんとなく、探偵小説みたいなものができあがってゆくンですから・・・
よく探偵小説を、本格と変格にわけて云います。こうした分け方にも、やかましく云えば議論があるでしょうが、一応便利なわけ方のようです。要するに本格も変格も、基底をなすエスプリそのものにおいては共通だと思います。

「わが創作法」より


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